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大日如来文字塔と稚児の墓

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5 北川空龍 大日如来文字塔

年代:明治16年(1874年)

様式:隅丸型文字

『ものがたり奥武蔵』の稚児の墓を探しているのですが、調べたら「大日如来文字塔」でちょっと違うようですね。

顕著なピークじゃないし。

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カンナタテのピーク

ここの南の字名を慈光小屋(じこうごや)といいまして、比企の慈光寺と深い関係があったそうです。
峠道も通っていたことから、小屋は休み場のことらしいです。

注目すべきは、慈光寺の稚児がここで命を絶ったという言い伝えがここに残されていることです。

「さて、征夷大将軍頼朝公のお成りとあっては、慈光寺はその応接に上を下への大さわぎで、この日はいつも隣り寺の高山不動から、多くの稚児が手助けにくるしきたりでした。
話はやはりこの時で、高山からきたある一人の稚児が、特にきわだって容貌が美しく聡明であったので、頼朝おそば近くのお給事役にえらばれました。
これに対して他の稚児たちは嫉妬心を起し、密かに機会あらばとねらっていました。

たまたまこの稚児が頼朝公御前に給仕中、腰と袴との擦り合いで異様な音を発したのを、他の稚児たちは、この時とばかりこれを放屁だといって辱めました。
美貌の稚児はくやしさの余り高山不動への帰途、右に高山、左に慈光の見える山の岩上から、投身してはててしまいました。

付近の村人があわれに思い、その地に一基の墓標を立ててその霊をねんごろにとむらったのですが、稚児は投身するときに「再びかかる無念を味わぬため、慈光へは以後稚児は登らぬように」との言葉を残していったので、それからは慈光の寺領中では子供が育たなくなってしまいました。

飯盛峠の東隣のこの稚児の投身した山を、今も稚児の墓と呼んでいますが、この伝説が本当になのか、慈光寺に関係ある家には丈夫な子供が一人もなく、幾度か坊さんがこの山に登って、稚児の墓を慰めたといいます。」

『ものがたり奥武蔵 P115』

岩の上から身を投げて亡くなったということは、かなり落差がある岩と思われます。
もしかしたら、カンナタテっていうのは、岩の名称なのではないでしょうか?


大日如来文字塔の少し西に、岩場があります。

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近くの岩場

でもここは、慈光小屋の字地では無く、空龍になってしまいます。

慈光小屋の地内で探すと、北川尾根のあの岩場しか思い当りません。

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北川尾根にある岩場

カンナっていうと、やっぱり大工道具の鉋ですよね。
垂直な岩だと思うのですが、まだこれだとなると、未発見です。

本格的に調べてみたいけど、踏査が全部終わってからにしますかね~。
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池田 和峰

Author:池田 和峰
2015年から奥武蔵登山詳細図を手伝うことになりました。

奥多摩登山詳細図(西編)などに名前が載っています。

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