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井戸入(いどいり)

標高770m 北川左岸、飯能市越生町境界尾根にある山。飯能市・越生町。
別名:ヰデイリ

この北川尾根と飯盛峠から派生する柏木尾根の谷間に佛岩(ホトケイワ)と称する岩窟がある。
カンナタテの大椚村方面の傾斜は千段萱(センダンガヤ)と謂われ、往古、龍ヶ谷の寺院の屋根を葺くために、毎年この地を火入れして萱を採ったから呼ばれたのである。

続いて770mの突起はヰデイリという。
(正しくは井戸入であるが)イリはこの地方から奥多摩にかけ多い地名で、川イリ即ち沢の意に用いられる。
そのイリを山名とするのは一寸変であるようであるが、名栗村にも659.6の三角点を有する人見ノ入があるのだからこの山を無理にイデイリノ頭と呼ばなくともよいと思う。
ここをすこし東すると白木平となる。
この呼称はこの平に白樺の木があったに因る。



『ハイキング 81号 奥武蔵高原 宮内敏雄 P9』

井戸入 イドイリ

滝の北、井戸沢の入か。
それにしては場所が離れすぎる。
近くに井戸があるのだろう。


『飯能市史 資料編 Ⅺ P151』

『ものがたり奥武蔵 P57』の略図にも井戸入とあり、入とは沢のことだが、奥武蔵では山を入ということもある。
現地へ行くと770m峰付近は、かつて耕作地だったような植林の平坦地でどこが山頂かわかりにくい。
『ものがたり奥武蔵』によると、他にも入のつく山名がいくつかあり、今後の研究課題である。
入は山だとすると、『飯能市史』の「井戸沢の入」という見解は的外れであり、精彩を欠く。

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2015年3月28日(土)グリーンラインからの井戸入入口

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2015年3月28日(土)井戸入山頂 770m峰

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2015年3月28日(土)グリーンラインに出る
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カンナタテ

標高780m 北川左岸、飯能市越生町境界尾根にある山。飯能市・越生町。

別名:稚児の墓

次の突起をひとつ越した780mの閉塞曲線が、カンナタテである。
カンナタテから高畑と柏木の部落の間へ引く尾根を北川尾根という。
この尾根は途中小指という畑地を過ぎて大師様(前坂峠)と呼ばれる峠となる。
そして最後に秋葉山(450m)となって間野に終わる。
その南の三角点を有する突起が天久保山である。


『ハイキング 81号 奥武蔵高原 宮内敏雄 P9』

さて、征夷大将軍頼朝公のお成りとあっては、慈光寺はその応接に上を下への大さわぎで、この日はいつも隣り寺の高山不動から、多くの稚児が手助けにくるしきたりでした。
話はやはりこの時で、高山からきたある一人の稚児が、特にきわだって容貌が美しく聡明であったので、頼朝おそば近くのお給事役にえらばれました。
これに対して他の稚児たちは嫉妬心を起し、密かに機会あらばとねらっていました。

たまたまこの稚児が頼朝公御前に給仕中、腰と袴との擦り合いで異様な音を発したのを、他の稚児たちは、この時とばかりこれを放屁だといって辱めました。
美貌の稚児はくやしさの余り高山不動への帰途、右に高山、左に慈光の見える山の岩上から、投身してはててしまいました。

付近の村人があわれに思い、その地に一基の墓標を立ててその霊をねんごろにとむらったのですが、稚児は投身するときに「再びかかる無念を味わぬため、慈光へは以後稚児は登らぬように」との言葉を残していったので、それからは慈光の寺領中では子供が育たなくなってしまいました。

飯盛峠の東隣のこの稚児の投身した山を、今も稚児の墓と呼んでいますが、この伝説が本当になのか、慈光寺に関係ある家には丈夫な子供が一人もなく、幾度か坊さんがこの山に登って、稚児の墓を慰めたといいます。



『ものがたり奥武蔵 P115』

『ものがたり奥武蔵 P57 略図』には、カンナタテ(稚児の墓)と書いてあり、カンナタテと稚児の墓が同じであるように思える。
現地へ行ってみると、カンナタテのピークは登山道からはずれた場所にあり、指導標の分岐から往復した。
道は明瞭だったが、着いた先のカンナタテ山頂は、灌木の藪に包まれたピークで、かつて北川尾根へと続いていた踏み跡も分からない。
カンナは大工道具のあのカンナに似た岩だろうと思うが、グリーンラインに破壊されてしまったのか、踏査時は見つけることができなかった。詳しくはこちら⇒大日如来文字塔と稚児の墓

稚児の墓もカンナタテ付近では見つからず、少し西寄りに明治に建てられた大日如来文字塔があり、これが稚児の墓かとも思ったが真相は不明。
もしご存じの方がいたら、教えていただきたい。

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2015年11月28日(土)左:飯盛山 中央:龍ヶ谷富士 右:カンナタテ

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2015年3月28日(土)グリーンラインからのカンナタテ入口

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2015年3月28日(土)ここからカンナタテを往復する

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2015年3月28日(土)カンナタテ山頂は、薮山

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2015年3月28日(土)グリーンラインに出る

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2015年3月28日(土)大日如来文字塔

龍ヶ谷富士(たつがやふじ)

標高795.2m 北川左岸、飯能市ときがわ町越生町の境界が交わる所にある山。飯能市・ときがわ町・越生町。

別名:飯盛山・ムスビ山

また堂平(関八州見晴台)は胴平で『武蔵野話』の巨人伝説では、奥武蔵の山中で巨人が横になったところ、頭は顔振峠(冠峠・かむりとうげ)で、胴がこの堂平(胴平)にあって、足が芦ヶ久保(足が久保)に伸びていたそうです。

飯盛山は、関八州展望台(見晴台)から北へ伸びる奥武蔵高原の主脈上のちんまりとした突起で、伝説によると、巨人の食べ残した御飯を盛った所だそうです。
この山も地図にも名はなく、海抜こそ788mですが、稜線がすでに750mを越えているのですから、とるに足りない小さな突起なのです。

しかし、文字で書けば同じ飯盛を、なぜ一方を「めしもり山」、次の峠を「いいもり峠」と呼ぶのか不思議に思われますが、あるいはこの二つの混同を発音によって避けた古人の智恵かも知れません。

この飯盛山を、昔は梅園村では龍ヶ谷富士と名付けていました。
しかしどう見ても富士の優姿はなく、尾根上のあるかなしかの突起は、それでも当時旧入間郡(名栗村、吾野村が秩父郡時代)では郡内で一番高い山だったのです。
越生でも最高峰で、なるほど旧梅園村の中心、越生梅林辺りから見ると、その最高峰であることがはっきり目に入ります。
別に富士信仰があるわけではなし、富士に似た姿でもない単なる山が、ただ村の最高峰であったばかりに、富士の名称をつけられたのは光栄といわなければなりません。
山高きがゆえに尊しだったわけです。



『ものがたり奥武蔵 P178』

伝説によると、巨人が食べ残した御飯を盛った所を飯盛山というようになったそうだ。
確かに、『ものがたり奥武蔵』のいうように主脈上の突起に過ぎず、食べ残した感が、ありありである。
しかし、「富士に似た姿でもない単なる山」という結論は、早急過ぎで調査不足と言わざるを得ない。
高山不動の手前に登山道から少しはずれると岩に松が生えた場所があり、ここから眺める龍ヶ谷富士は、まさしく飯を盛ったような山容なのである。
小さいながらも、凛とした三角の山容は美しく、龍ヶ谷富士と呼ばれていたのも納得。

別名のむすび山も三角錐の山容から起こったものである。

現地には、飯盛峠を挟んで二つの飯盛山があるとの標示があり、混乱を避けるために795.2m峰を龍ヶ谷富士と表記した。
関東ふれあいの道の大きな山名標が建つ816.3m三角点峰の飯盛山は、『ものがたり奥武蔵』では無名、昭和15年発行の『奥武蔵 ハイキング・ペンクラブ著』では、「816.3m三角点峰は飯盛山の名がある」としているので、795.2m峰の飯盛山と合わせて今後の研究課題である。

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2015年11月28日(土)高山不動付近からの飯盛山

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2015年3月28日(土)龍ヶ谷富士入口

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2015年3月28日(土)手製道標

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2015年3月28日(土)龍ヶ谷富士山頂

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2015年3月28日(土)飯盛山(龍ヶ谷富士)山名標

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2015年3月28日(土)飯盛山の表記について

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2015年3月28日(土)グリーンラインに出る

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2015年11月28日(土)高山不動付近からの飯盛山(左:816.3m三角点峰 中央:795.2m峰)

飯盛山(いいもりやま)

標高816.3m・二等三角点 点名:北川。 北川左岸、飯能市ときがわ町境界尾根にある山。飯能市・ときがわ町。

別名:センズイ・百貫マグソ

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2015年11月28日(土)高山不動付近からの飯盛山(電波塔が建っていて、飯盛形には見えない)

『ものがたり奥武蔵 P180』に、「816m三角点は昔から無名である」と書いてあるが、同書のP57略図にセンズイ(百貫マグソ)と書いてある。
P71には、センズイは小沢の名であると書いてあり、はっきりしない。
それでは百貫マグソとはどういう意味なのだろうか?

とてつもなく大きな馬糞?

柏木尾根の西には、馬を一休みさせたという馬放という場所もあり、そこで草を食んだ馬がここで特大の糞をしたのだろうか?

と、冗談はさておき…。
百貫は価値があるものの例え。
奥多摩の孫惣谷は、マグソ谷ともいい、武田信玄が馬を洞に隠し、その馬が糞をするからマグソ谷の名が起こったと『奥多摩 宮内敏雄 著 P137』に書いてあり、宮内氏は由来不詳としているが、秣(まぐさ)場のマグサがマグソに訛ったのだろう。
つまり百貫マグソは、良質な秣がとれる場所という意味である。

現在、電波塔横の816.3m三角点峰には、関東ふれあいの道の大きな山名標に飯盛山と書いてある。
『ものがたり奥武蔵 P179』では「めしもり山」「いいもり峠」と分けて呼ぶと書いてあるが、地元の柏木で出会った方は、イイモリ山と言っていた。
イモリ山でも少し触れたが、奥武蔵では、飯盛はメシモリではなく、イイモリと読むのが正しいようだ。

816.3m三角点峰は無名だと『ものがたり奥武蔵 P180』に書いてあるが、昭和15年発行の『奥武蔵 ハイキング・ペンクラブ著 P120』に「飯盛峠の816.4mを飯盛山と云う」と書いてあり、これはいったいどういうことなのだろうか?

現地には、飯盛山の名が二つあるので注意するようにとの標示があり、『奥武蔵 ハイキング・ペンクラブ著 P120』の記述もあるので、816.3m三角点峰を飯盛山としたが、飯盛形に見えない山なので、今後の調査研究課題である。

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2015年3月12日(木)飯盛峠

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2015年3月12日(木)飯盛山山頂

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2015年3月12日(木)飯盛山山名標

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2015年3月12日(木)飯盛山の表記について

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2015年11月28日(土)高山不動付近からの飯盛山(左:816.3m三角点峰 中央:795.2m峰)

舎ノ峰(こやのみね)

標高679m 北川左岸、柏木尾根にある山。飯能市。

舎ノ峰 コヤノミネ 公図:舎岑

千賀邑の北、少し嶮しいが南向きの平。
里から遠いので、畑作の小屋があったものと思う。

馬放 ウマハナシ

町屋敷の北、西は越生方面との交通路で、馬を一休みさせる平があった。

千賀邑 チガムラ

空龍南西の山中、茅草(ちがや)の群をいったのであろう。
茅草は、むしろや縄をつくり、屋根材など用途が広い。



『飯能市史 資料編 Ⅺ P161』

グリーンラインから柏木尾根コースを下ると、誤って空龍林道に出てしまった。
ちょうど、地元の方が車で来られたので、事情を説明すると、作りかけの神社から柏木川(町屋敷)へ南東に下る道は私道であるので、できれば歩かないで欲しい、神社から尾根上の荒廃した道が公道であると教えられ、間違えて下ってしまう人が今後も出て来ることが懸念されるので、神社から南東の道は通行禁止と表記することにした。
今は丸太で道を塞いであるが、くれぐれも間違えて入らないようにしたい。

神社から尾根上の公道であるが、荒廃が進んでおり、歩きにくい。
昔は、道の手入れがされていたそうだが、今は歩く人も少ないので整備がされなくなってしまったという。
かつては、柏木から越生へ出る重要な峠道のひとつで、グリーンラインの下に地蔵大菩薩の石造物があるのは、往時の名残である。
柏木尾根の西側に馬放(うまはなし)の名が残るのも往時の名残で、牧草地でもあったのだろうか?
馬放の中心地は定かではない。

『ものがたり奥武蔵 P57 略図』にある千賀邑は、山名ではなく、字名のようだ。
由来も山名に関するものではない。

679m峰付近は耕作地に適した平坦地が広がり、確かに飯能市史のいう小屋があったと思われる。

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2015年3月28日(土)グリーンラインからの柏木尾根入口

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2015年3月28日(土)グリーンラインの直下にある地蔵大菩薩

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2015年3月28日(土)舎ノ峰へは、ここで尾根上の右の踏み跡(あまり踏まれていない方)へ

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2015年3月28日(土)679m峰 舎ノ峰山頂は、北側が雑木で明るく気持ちが良い山頂

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2015年3月28日(土)舎ノ峰東のコブは更に明るく、かつての耕作地の様子がしのばれる。大休止はココ!?

黒仁田山(くろにたやま)

標高540m 北川左岸、北川尾根にある山。飯能市。

黒仁田 クロニタ

釜ノ平の西の広く深い山林。
すぐとなりが立間(狩りに関する地名)と仁手ノ久保で仁田(あるいは仁手)といわれる猪などのやってくる湿地である。
黒仁田の黒は「小高い所」をいうなどと辞書にあるが、北川方面から高畑へ行くそれでなくても暗い山あいの沢道から枝分かれした仁田の景観は木立に覆われていよいよ暗い。
黒を「小高い所」というのも、このような背景のもとではじめていえる。
青梅黒沢聞修院のへんにも「黒仁田」がある。



『飯能市史 資料編 Ⅺ P152』

小指 コザス

峯の西、平坦地があり水も流れているから「さす」にしないまでも作物は作れたろうが、北側の山手では更にさす畑も行われたのであろう。
南側に黒仁田山がそびえているから平地でも日ざしは必ずしもよくない。
えんりょして小ざすといったのもわかる。



『飯能市史 資料編 Ⅺ P151』

高畑で出会った林業関係者に教えてもらった山名だが、未踏査のため写真は無い。
辞典を見ると、飯能市史にあるように、確かにクロは「小高い所」と書いてあり、えぐれた地形により小高く見えるというのがクロの語源らしい。
旧高山村 黒仁田は、前坂峠の南西から高畑川に下る沢筋周辺の名で、黒仁田山は、黒仁田の境界線が東にはみ出した所に丸々収まっている。

ということで、小高い所にある湿地というのが、黒仁田山の由来になる。

黒仁田の北(636m峰から南西一帯)には、宮内氏が指摘する小指という名があり、昔の地形図では、桑畑のマークがついている。
かつては焼畑が行われ、その後、養蚕ための桑畑になり、養蚕が廃れると植林地となったようである。
今は、薄暗い植林が立ち並んでいて、かつて桑畑だったとは想像もできない。
飯能市史によると、「(小指の)南側に黒仁田山そびえている」とあり、場所も一致する。

高畑で出会った人の話では、高畑~前坂峠~カンナタテは、かつては良いハイキングコースで、30名ほどの団体が登ったりするほどメジャーなコースだったそうだ。

オバケ山(おばけやま)

標高500m 北川左岸、北川尾根にある山。飯能市。

旧北川村に属し、北西が大林(おおばやし)、南東が立間(たつま)の境界になっている。

立間 タツマ
仁手ノ久保、黒仁田などが近くにあり、狩場としての立間の名は場所にかなっている。
昔は大木ばかり(杉、桧、モミソなど)だった。
俗にオバケ山ともいわれた。



『飯能市史 資料編 Ⅺ P159』

飯能市史に書いてある立間のピークは500m圏峰である。
オバケ山と言われたのも数十年前のことのようで、今は二次林が育ちつつあり、オバケが出そうな雰囲気は無い。
ただ、山頂にオバケ山の由来となったと思われる、標木の大きな切株があり、ここがオバケ山であると伝えている。

前坂峠~町屋敷の峠道は倒木が激しく、峠道の脇でないと歩けないが、高畑で出会った男性によると、「あ~その倒木は数十年前に、俺が切った木だ」と苦笑しながら話してくれた。
オバケ山周辺も確かに鬱蒼としていたらしい。

前坂峠~町屋敷の峠道は、麓近くで民家の中を通ることになり、このことについても尋ねてみたが、歩いても支障はないとのことだった。
許可もいただいているが、念のため民家を避ける不動明王経由のルートを設定した。

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2015年3月8日(日)オバケ山山頂(500m圏峰)

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2015年12月5日(土)オバケ山山頂(500m圏峰)

秋葉山(あきばやま)

標高360m 北川左岸にある山。飯能市。

次の突起をひとつ越した780mの閉塞曲線が、カンナタテである。
カンナタテから高畑と柏木の部落の間へ引く尾根を北川尾根という。
この尾根は途中小指という畑地を過ぎて大師様(前坂峠)と呼ばれる峠となる。
そして最後に秋葉山450m)となって間野に終わる。
その南の三角点を有する突起が天久保山である。



『ハイキング 81号 奥武蔵高原 宮内敏雄 P9』

旧北川村 八木平に属し、秋葉大権現が祀られていることが由来。
秋葉権現とは、山岳信仰と修験道が融合したもので、北川の岩場が信仰の対象、修験者の修行の場となっていたことを物語っている。
北川の岩場を登ると、大展望に歓声をあげる。
秋葉大権現の石碑が二つあって一つは割れている。
その背後のピーク、360m圏峰を秋葉山としたが、宮内氏の記述を詳しく見ると、新版地形図の460m峰(旧版地形図の450m峰)が秋葉山と言っているようだ。
どちらのピークにも山名標が無く、決め手にかける。
次版発行までに再調査、再選考をする必要がある。
秋葉山について何かご存じの方はご教示いただきたい。

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2015年3月28日(土)北川の岩場

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2015年3月28日(土)秋葉大権現

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2015年3月28日(土)秋葉大権現

天久保山(てんくぼやま)

標高403.5m・三等三角点 点名:坂元。 高麗川左岸にある山。飯能市。

南西の旧坂元村 細久保(飛地)、北の旧北川村 間野向、南東の旧北川村 柿沢の境界が交わる山頂。

次の突起をひとつ越した780mの閉塞曲線が、カンナタテである。
カンナタテから高畑と柏木の部落の間へ引く尾根を北川尾根という。
この尾根は途中小指という畑地を過ぎて大師様(前坂峠)と呼ばれる峠となる。
そして最後に秋葉山(450m)となって間野に終わる。
その南の三角点を有する突起が天久保山である。



『ハイキング 81号 奥武蔵高原 宮内敏雄 P9』

天は頂上や山頂という意味で、久保は秩父地方で山頂を意味するクボに当て字されたもの。
よって、天久保山を意訳すると山山山ということになる。
おそらく、クボ山に天という美称が付加されたか、風木クボのように天クボだったものに、山名語尾の山を付けられたのだろう。

山頂付近は、作業道が錯綜しており、わかりにくい。
歩きやすいからと作業道を歩いていると、別の場所に出てしまうこともある。
北川道路開墾記念碑へ出る手前は、伐採で荒れ果ててしまっているので、早く取り除いて欲しいものだ。
記念碑へ行かずにそのまま尾根上を南下するルートもあるようなので、次版発行までに踏査の必要がある。

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2015年5月29日(金)天久保山山頂

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2015年5月29日(金)天久保山山名標

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2015年5月29日(金)三角点

坂石山(さかいしやま)

標高410m 高麗川左岸にある山。飯能市。別名 桜山。

さて丸山から尾根筋は大峠へと降る。
大峠から一つ突起を越した570mの閉塞曲線が愛宕山である。
頂上に愛宕神社の祠があるに依る。
その肩を高山部落から眞野(間野)への乗越が通っているのが赤坂と呼ばれる。
赤坂から南すると410mの萩ノ平となる。
この尾根の目星しいところはこの位であるが、尚下ると坂石山(400m)となって東に転じ三社峠(高山峠)、大久保峠、梨本峠などなど低くなって坂石町に臨んで終わっているのである。



『ハイキング 81号 P10 奥武蔵高原 宮内敏雄』

村名の由来は『風土記稿』に「村名の起り土人の説定かならねど、村内を流るる高麗川の中流に巨石ありて、当村と坂石町分との境石なるよし云傳へしより起りて坂石村と云しよし、さらば境石村なるべきを、字訓ともに近似せるによりて誤り来りしにや」と。現在も川の中に家一軒ほどもの巨石があり、小さな祠が祀られている。



『飯能市史 資料編 Ⅺ P142』

宮内氏の記述によると、坂石山は尾根が分かれるピーク、つまり410m圏峰のことだという。
『飯能市史 資料編 Ⅺ』によると、山頂は南東が旧坂元村 下ノ平、北西が旧北川村 洞谷(ぼらやつ)、北東が旧坂元村 志田ノ久保、南東が旧坂石村 桜山の境界が交わっていて、旧坂石村の最北西端となっているので、坂石の背後の山というのがその名の由来。

北の418m峰は、旧坂元村 志田ノ久保と旧北川村 安屈(あくつ)の境界で、旧坂石村にはまったく接していないし、旧坂石村の麓からもまったく見えない。

坂石山山頂は、植林に囲まれた小さなピークで、山名標も無い。
踏査時も写真を撮り忘れてしまった。

ちなみに、三社峠の南の辺りは上屋敷と呼ばれ、岡部氏の屋敷があったといわれている。
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プロフィール

池田 和峰

Author:池田 和峰
2015年から奥武蔵登山詳細図を手伝うことになりました。

奥多摩登山詳細図(西編)などに名前が載っています。

メアド:climberkaz@gmail.com

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